アトリエトーク

旅と学びのコラム 「アジア、ものづくり、町工場」 第15回

平成25年12月25日

新しき糧YOSHI <ペンネーム>

一浪して、1976年に大学に入った。旧社会党シンパの先生が多い大学であった。教養課程の授業を聞いていると、何人かの先生がエドガー・スノーの『中国の赤い星』を読むようにしきりと薦めた。アメリカ人ジャーナリストが毛沢東ら中国共産党のメンバーから取材して書いた本である。丹念に読んではみたが、あまり毛沢東に魅かれることもなく、中国への興味は深まらなかった。

学生時代には、いろんな国を自分の目で見て、自分の足で歩くべきだと思って、それを実行していった。まずは大学2年の夏休みに西側先進地域の代表としてヨーロッパを1ヶ月間、かけずり回った。春休みには発展途上国を見なくては、と思い、2週間ほど、マレーシアやタイに行った。残るは東側世界であった。当時は文化大革命の影響で、中国旅行はむずかしかった。毛沢東より、レーニンが好きというわけでもないが、ソ連は中国に比べると、旅行しやすそうだった。そんなことで中国ではなく、ソ連に行くことで学生時代にあっちこっち見てやろうという自分で設定した課題をやりおえた。

就職すると、欧米にも東側世界にもふたたび行く機会は久しくなかった。アメリカの土を初めて踏むのは2009年だし、イギリスにはいまだに行ったことがない。中国に行くことも長らくなかった。

2001年の4月13日から27日まで15日間、北京に滞在した。これが最初の中国訪問である。目的は、機械工業に関する文献調査と工作機械国際見本市の見学である。当時は博士課程の院生で、身銭を切っての節約旅行であった。中国東方航空を使って、青島経由で北京に向かった。あまりグレードの高くない小型旅客機の機内では、壁にかかった液晶ディスプレイでTom & Jerryを繰り返し放映していた。

北京に着いた時には日がとっぷり暮れていた。空港から高速バスで北京市内まで行き、地下鉄に乗り換えて、ホテルに最寄りの西直門駅まで行った。地下鉄も駅も古びていた。一つ星ランクのホテル西直門飯店は古くさく、旧ソ連と仲のよかった1950年代からあるのではと思った。フロントでは英語が通じず、筆談となった。部屋もなんだか、湿っぽかった。

4月の北京の朝は肌寒い。ホテルの門を入ったところに、露天の朝飯屋が営業しており、暖かいお粥や豚饅などを提供している。僕は毎朝、ここで腹ごしらえした。

ホテルの敷地内に日本の居酒屋チェーンが出店していた。いかにも粗末な着物を着せられた中国人ウェートレスがへたな日本語で「いらっしゃいませー。」と迎えてくれる。北京ではなかなか安くておいしいものに出くわさなかったので、何回か、この店で晩飯を食べた。

ホテルから中国国家図書館へは歩いていける距離で、何回か、通った。北京の春は、柳の綿毛が舞う季節である。胡同(フートン)と呼ばれる裏道を歩くと、一般市民の生活に触れられて楽しい。ある三つ星ホテルには、修学旅行でやってきた日本の高校生連中が泊まっていて、羨ましかった。

外国の図書館に行くと使い方を理解するのに多少、苦労する。国家図書館では、まず手荷物を預け、利用者登録をしなければならない。他の利用者がどのようにしているかを観察して、ノウハウを盗む。中国専門家でもない人間が初めて訪中して調べものをする場合は、ふつう、誰かに紹介してもらった現地の人に付き添ってもらって、手続きを済ますのであろうが、いつも単独行の僕は、どこでもこんな調子である。あまりスマートなやり方とは言えないいが、これが僕流。

利用者カードを作るのに、所定の用紙に氏名を書く。僕の本名は、苗字2文字、名前2文字である。氏名欄の後には、同志と印刷されている。帰国後、同級生の中国人にこのことを話すと「いやだったでしょう。」と言われたが、僕は「そうか。僕も同志とみなされたか。」という気がしたものである。ただ、あちらの係員は、氏の欄に苗字の1文字目、名の欄に苗字の2字目と名をつなげて書いていた。欧陽菲菲(オーヤン・フィーフィー)という日本で活躍していた中国人歌手もいたが、中国で2字の姓は例外的ということだろう。

国家図書館の領収書
国家図書館の領収書

国家図書館の利用者カード
国家図書館の利用者カード

北京での文献調査の場合も、国家図書館、北京大学、清華大学については、事前にインターネットを通じて資料の所在を確認していた。もちろん、それ以前に東京にある中国研究所や千葉に移ったアジア経済研究所の図書館が所蔵する文献には目を通しておき、それ以外の資料を探す。中国の場合はピンイン入力で漢字変換するので、英字のキーボードがそのまま使える。ただ、国家図書館内の蔵書検索用中国製パソコンの漢字変換は日本でやっていたのとは勝手が違って、ややとまどった。

昼食は図書館の食堂で食べる。日本の国立国会図書館の食堂もぱっとしないが、国家図書館の食堂はさらにおざなりで、みんなカップラーメンなどで済ましているので、それにならう。

地下鉄の駅では、戦傷による障害者が物乞いをしていた。1960年代初め、大阪梅田の地下街で、軍服を着た足のない元兵士がアコーディオンを弾いて、喜捨を求めていた。子供心にこわかった当時の光景を思い出す。

北京市内の移動は地下鉄とバスであった。地下鉄はまだ路線が限られていたので、バスも使わざるを得なかった。初めての町でのバス利用はやや不安であるが、バスの路線番号が書いてある地図を買って、北京市民の顔をして乗っていた。(つづく)

(この時は研究第一で、写真をとるというゆとりを持たずに行ったので、残念ながら写真がないのです。)

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