アトリエトーク

旅と学びのコラム 「アジア、ものづくり、町工場」 第14回

平成25年11月25日

新しき糧YOSHI <ペンネーム>

台北では現地のたいへん親切な弁理士さんが段取りしてくれて、二晩続けて、宴会に出た。台湾式の乾杯は、相手を指名して、同じ酒を捧げて同時に飲み干す。みんな乾杯を求めてくるので、10人の宴会なら、少なくとも9回のご指名がかかり、9杯飲むことになる。最初のうちは、失礼があってはと、律儀に付き合っていたが、酔いが回り始めたので、トイレに立った際に、空いているテーブルに座って水をもらい、一服。それでも、完全な二日酔いとなった。

翌日の夕食会は、退職した、または現役の裁判官が多かった。僕は法律の話題を持ち出しようもないので、1933年生まれの元司法院大法官の方や少し若いがやはり日本語のできる最高行政裁判所の元所長さんに昔話を伺った。戦時中がちょうど彼らの小学生時代であった。「台湾の子供が通う小学校は日本人のとは別だった。日本人に『ちゃんころ』とさげすまれ、いじめられた。朝礼では皇居遙拝があり、教育勅語を覚えされられた。台湾の児童は学校では日本語の使用を強制されたが、家では台湾語を使っていた。」とのことだった。

戦後になって中学に入ると、今度は大陸からやってきた中国人教師の授業を受けたが、彼らのことばは理解できなかった。台湾語は中国語の一方言という以上に違うのである。中国語には四声があり、日本人はアクセントの使い分けに難儀するのだが、台湾語には八声あるという。ことばの問題は裁判でも生じ、大陸出身の裁判官と台湾市民との間の意志疎通が困難な時代が10年ないし20年間も続いた。

戦後になると、大陸から国民党政府の官僚や軍人が台湾にやってきて、日本当局から権限を引き継いだ。彼らは外省人と呼ばれ、台湾の統治機構で要職を占めた。彼らは大陸で日本軍や毛沢東率いる共産党軍と交戦していたので、強い反日・反共感情を持つとともに、心がすさんでいた。腐敗した組織が、もともと台湾に居住していた本省人と呼ばれる多数派を支配する中で、1947年、外省人による統治に叛旗を翻した本省人たちが弾圧されて、殺される二・二八事件が起こる。

植民地支配からの解放が韓国・朝鮮の人々に朝鮮戦争という新たな悲劇をもたらしたのと同じように、終戦とともに台湾にも安心して穏やかな生活を送れる時代が到来したのではなかった。その不幸が、まだ日拠(日本が占拠していた)時代の方がましだったという消極的な親日感情を台湾の人々の間に醸成させていく。

ある元裁判官は、台湾は中国と一緒にならず、独立国でありたいと言った。しかし、それには日本やアメリカの支持が欠かせぬと。1972年、日中、米中の国交が開かれたことによって、日米との正式な外交を断たれた台湾。外交上、見捨てられても、独立国たらんとするには、日米に頼らざるを得ないという事情も親日的感情の背後にはあるようだ。

週末に虎尾からうちの学生5名、付き添いの台湾学生3名が台北に出てきて、1泊2日で観光するのに付き合った。まずはおいしい小籠包が食べたいと言う女子学生の希望で、台湾の女子学生に勧められた台北101の鼎泰豊(ディンタイフォン)に行く。常に行列ができる店で、その日も45分待ちであった。その間、台湾随一の高層ビル台北101の展望

台に世界最高速の東芝製エレベーターで昇る。静かにあっという間に88階に到着。天空からの眺めを目に焼き付けた後、店に戻り、ふつうの小籠包とカニみそ入りのものを注文。それに加えて各自、チャーハンや麺を食べた。よぉし、食うぞというタイミングで、あれこの店、大阪にもあるやんということがわかって、やや意気消沈。それでも、くせがなく、あっさりして、おいしかった。台湾の学生には高いが、日本人なら大丈夫と聞いていたが、8人で6000円程度であった。

日曜日は台北郊外の九.へ。かつての鉱山町で、日拠時代も金を採掘していた九.が観光地になったのは、いつごろだろうか。まずは二・二八事件を題材とした侯孝賢監督の映画『非情城市』が1989年に公開されて、ロケ地であった九.が脚光を浴びるようになる。

日本人が大挙して押し寄せるようになったのは、先ごろ引退を発表した宮崎駿監督のアニメ『千と千尋の神隠し』が2001年に公開されてからである。多くの日本人のお目当ては、このアニメに出てくる「湯婆婆の屋敷」に似た雰囲気の茶店阿妹茶楼である。

台北市内からワゴン車に乗りこんで1時間ほど。海の見える山の中腹で下ろされて、土産物屋がびっしりと立ち並ぶ細い路地を登っていく。件のお茶屋の前で記念撮影。学生たちはそれで満足したようだけど、せっかくやからお茶くらい飲んで行けへんと僕が誘ったのが運の尽き。雰囲気のある店で、見晴らしもよかった。ところが喫茶代が一人1000円で、学生たちは凍りついた。日本人目当ての、観光地相場なわけである。たいそうしょげているので、台湾の学生無料、日本の学生300円として、ごちそうした。その後、魚肉のつみれ汁で有名な店で軽く昼食。45分間の自由時間をとったので、僕は金鉱山の名残を探しに行った。土産物屋の喧騒から離れたところに坑道入口が残り、山肌にしつらえられた鉱山労働のレリーフが歴史を伝えていた。

阿妹茶楼
阿妹茶楼

金鉱山の坑道入口
金鉱山の坑道入口

台北から虎尾に戻り、交流行事は締めくくられた。台湾の学生さんたちは、日本人学生にほんとうに親切にしてくれた。日本人学生にとって、泊らせてもらった学生寮も町の建物もうす汚いし、食べ物のにおいや味にも違和感がある。しかし、台湾学生のOmotenashiの心が十分にわかったようだ。昨年、この交流会に参加したうちの女子学生たちは、今年は韓国に語学研修に行き、そこでも随分と親切にされたそうだ。若い学生が偏見を持たずにいろんな、とくに「大人の世界」では疎遠になっている国に行って、直接、現地の人々と接してくることが、好ましい国際関係の基盤になる。さて、次回からは中国へ。

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