アトリエトーク

旅と学びのコラム 「アジア、ものづくり、町工場」 第12回

平成25年9月20日

新しき糧YOSHI <ペンネーム>

韓国を離れる前日19日、国会図書館に行ってみた。日本の国会図書館のようにめぼしい資料はなかった。ただ、独島(竹島)についての展示コーナーが目を引いた。その後、永登甫(ヨンドンポ)にあるローカルな市場に行った。テント屋根のアーケード街である。1960年代の大阪の市場を彷彿とさせる。鶏肉屋には韓国料理サムゲタン(蔘鷄湯)用に首を落とし、羽をむしり、内臓を取り除いた鶏がそのままたくさん並んでいた。足の先(もみじ)はそれだけで山積みされていた。食用の犬も売られていた。そういえば、戦時中に犬を感電死させて食ったという話を親父から聞かされていたが、朝鮮半島、中国、台湾では今でも犬を食べる。唐辛子は山積みされて売られていた。唐辛子にも銘柄があるようだった。魚屋はあまりきれいではなかったが、ハエは意外に少なかった。

ソウル永登甫の市場
ソウル永登甫の市場

鶏肉屋
鶏肉屋

泊ったホテル周辺の襄平(ヤンピョン)という町は思いもかけず町工場街であった。これはホテルに滞在しているうちにわかった。かつて勤めていた中小企業の外注先のような小さな機械加工工場が集積していた。これは突撃取材しなくてはならないと覚悟して、ついに決行することにした。町工場のおやじさん(経営者)とは、韓国語で話さざるをえない。僕の韓国語能力では、聞き取り調査はできない。工場の中で、どんな工作機械を使って、どんな仕事をしているのか、見せてもらうことにした。はたして、見ず知らずの日本人の突然の来訪を受け入れてくれるだろうか。

こうしたチャレンジには多少の気合とずうずうしさがいる。韓国語がいきなり口からほとばしり出るはずもないので、どんな風に言うか、ホテルで作文して、覚えておく。そして、いざ出陣。最初に訪問した工場では、おやじさんらしき人は現場にいて、やや強い語気で機械を操作している職人さんとしゃべっていた。たどたどしい韓国語で、自己紹介し、ちょっと工場を見せてくださいとお願いした。不機嫌な様子だったので、どうかと思ったが、どうぞご自由にということだった。おやじさんのことばではなく、しぐさでそう判断できた。どんな機械が使われていて、どこの製品か、どんな仕事をしているのか、何人働いているのか、などを調べて、メモしていく。離れの工場にも機械があるよと、教えてくれた。訪問したタイミングが悪かったかなと思ったが、意外と親切なおっちゃんだった。

別の町工場は携帯電話などの金型を作っていた。この工場のおやじさんも気安く招き入れてくれた。韓国語で説明してくれたが、情けないことにわからなかった。しかし、製品のサンプルや加工図面を示してくれた。日本のYKKの図面が出てきた。日本企業の発注した仕事が、めぐりめぐって、ソウルの町工場で加工されているのである。

1996年にインドネシアの町工場めぐりした時もこんな調子だった。見ず知らずの工場にのこのこ入っていく。実に怪しげな行為だが、つまみ出されたことはない。町工場だから許される。

町工場をのぞくと、自転車がよく目に付いた。従業員が自転車で通勤しているのである。そういえば、僕の勤めていた工場にも自転車通勤の工員さんが何人かいた。

襄平には工作機械で金属製の機械部品を加工する工場が多かったが、保有している機械の種類や手がけている製品には違いがあり、また金属部品を熱処理する(加熱、冷却により金属の性質を変える)工場もあり、地域内で分業されていることが知れた。

ソウル襄平の町工場 その1
ソウル襄平の町工場 その1

ソウル襄平の町工場 その2
ソウル襄平の町工場 その2

町工場街にはたくさんの中古機械販売店が軒を連ねた団地もあった。そういうところで売られている機械は、ほとんど韓国製であった。それだけ工場の基本的な設備である工作機械も国産化が進んでいるわけだ。もっと日本製が出回っているかと思っていたが、意外と少なかった。技術提携による国産化が進んだこともその一因である。

韓国には現代(ヒョンデ)や三星(サムスン)など財閥(チェボル)系企業がある。こうした企業は短期間で技術を修得するために日本企業と技術提携した。日本企業は技術流出を警戒しつつも、もし手を差し伸べなければ、韓国は欧米から技術導入して、その結果、韓国市場を失ってしまうことになりかねないと危惧した。そのために日本企業は韓国企業の求めに応じた。隣国であり、文化的にも近い日本と韓国との間の技術交流は容易であった。最近、韓国は国際的な地位を高めているが、日本の存在が韓国の技術発展にプラスに影響したことは否めないと思う。一方で日本は朝鮮半島に負い目がある。

ドイツは戦後、東西に分断されたが、東アジアでは敗戦国日本の本土は分断を免れ、被支配地であった朝鮮半島が分断された。それは戦勝国の思惑によるとはいえ、朝鮮民族の悲しみは戦後の光復によって癒されるどころか、さらなる塗炭の苦しみが彼らを襲うことになる。朝鮮戦争の勃発である。日本はこの隣国の戦争によって戦後経済復興のきっかけをつかんだ(韓国編おわり)。

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