アトリエトーク

旅と学びのコラム 「アジア、ものづくり、町工場」 第8回

平成25年5月15日

新しき糧YOSHI <ペンネーム>

台南に着いたその日の晩、1960 年代に台湾に技術指導に赴かれて以来、現地企業を長年にわたって経営された日本人Yさんにお目にかかって、行きつけにされている気の張らない日本料理店でお話を伺った。技術指導を終えて帰国しようとしたYさんは、現地の人たちに引き止められて、彼らの出資で設立された工場を経営することになった。その企業A社は現在、台湾有数の優良企業に育ち、台湾人によって経営されている。Yさんは戦後、国境を越えてグローバルに活躍した日本人技術者の走りである。

翌朝、投宿していたホテルに迎えの車が来て、A社を訪問する。途中の車中から、びんろう(檳榔)売りの女の子を見かけて、目を疑った。幹線道路に面したガラス張りのお店で、水着姿の若い娘がびんろうを売っているのである。車の運転手さんに、あのおねえちゃん、朝っぱらから何なんですか、と聞きづらかったので、帰国後、グーグル検索して、あの商売がなんなのか、知った。びんろうはたばこのような嗜好品だが、あそこまでして売るほど利益率が高いのだろうか。噛むと口の中が真っ赤になり、路上に吐かれたびんろうは、血反吐のようだ。

A社では台湾人社長が日本語で会社の概要を説明してくれ、日本人工場長が社内を案内してくれた。日本人が働いているのは、かつて技術供与を受けていた日本企業が2002 年に倒産したため、その社員を受け入れたためである。A社にとっては日本の技術を吸収する絶好の機会であったし、日本人技術者は失業せずに、これまでに蓄えた技術をそのまま生かせたのである。

台南郊外の機械工場
台南郊外の機械工場

新幹線の駅弁
新幹線の駅弁

お昼は社員食堂で、晩は台南の日本料理店でご馳走になりながら、工場長から話を聞かせていただいた。この日はクリスマスイブであった。台南市内もクリスマスのイルミネーションがきれいだった。そういうこともあってか、やや飲みすぎて、ホテルに帰り、小用に立つと一瞬、気を失い、洗面台に額を打ち付けてしまった。たんこぶですんでよかった。

翌日は、在来線でさらに南下して高雄の工業研究所に行き、そこの図書室で文献資料を複写した。夕刻、高雄・左営駅から新幹線で台北まで一気に北上した。夕食は電車の中で駅弁を食べた。台湾料理の駅弁やコンビニ弁当は、いろどりは良くないものの、それほど違和感なく食べられる。台北の宿はインターネットで予約した町なかの小さな安ホテルである。南国とはいえ、朝晩は冷え、シャワーのみでは、やや寒々しかったが、がまんする。

26日は台湾大学図書館で文献資料の収集(複写)をした。コンピュータ端末で利用者登録し、パスポートを預けたら、学生アルバイトと思しき受付係君が日本語でロッカーに荷物を預けてくださいと説明してくれた。翌日曜日、午前中は国家図書館で資料収集する。インターネットの普及により、海外にある図書館の蔵書検索も日本で事前にできるので、ずいぶんと調査計画が立てやすい。ただし、文献検索は中国語である。中国本土では英字でピンインを入力して、漢字(簡体字)に変換するが、台湾では日本語のカタカナのような独特の注音字母を入力して、漢字(繁体字)に変換する。

台湾大学図書館
台湾大学図書館

火鍋
火鍋

午後から高速バスで台中に向かう。夜に台中市内に入るが、降りるバス停をまちがって、徒歩で後戻り。大陸からの観光客が多い中級ホテルに泊まる。NHK国際放送で『坂の上の雲』を見た。

翌日、台中にあるC大学を訪ねる。神戸大学に留学した経験があり、台湾の機械工業について研究されているD教授と面談して、図書館にはない台湾企業の社史を借りることができた。大きな収穫だった。もう一人、東京大学に留学していたE准教授とも知り合った。

日本統治期に日本語教育を受け、日本資本の現地工場で経験を積んだ人たちが、戦後になって、中小企業を創業する。「為鶏口無為牛後(鶏口となるも牛後となるなかれ)」ということばがあるように、台湾の人々は独立精神旺盛である。大企業で定年まで勤めるよりも、経験を積んだら、独立開業する道を選ぶことが多い。こうして台湾では中小規模の町工場が増えていった。そうした機械工場が台中に集積している。

この日の晩はそごう百貨店の地下で火鍋を食べた。鍋といえば、何人もでつつくものだが、これは一人鍋である。台湾の食事は日本の食文化の影響も受けているようで、火鍋はあっさりして実においしかった。日台合弁のデパートなので、地下の食料品売り場には日本から輸入した野菜や果物が売られていた。(つづく)

コラム一覧へ戻る

▲ページ上部へ戻る