アトリエトーク

旅と学びのコラム 「アジア、ものづくり、町工場」 第3回

平成24年12月10日

新しき糧YOSHI <ペンネーム>

8月10日朝、鉄路でバンドゥンに向かう。椰子の木や棚田の間を抜け、昼過ぎに1955年のアジア・アフリカ会議で有名な高原都市に着く。駅からタクシーで13年前に訪問したP社に向かう。信号で車が止まると、かわいらしい女の子が寄ってきた。物売りである。だが、その目にはおそろしく感情がない。どんな境遇が彼女の目から輝きを奪ったのだろうか。貧しい国ではよくある光景だが、僕はどうしたことかといつも困ってしまう。ほほえみを無理やり作りながら、信号が変わるのを待つのである。

バイドゥン行きディーゼル機関車
バイドゥン行きディーゼル機関車

バイドゥンへの沿線で見られる棚田
バイドゥンへの沿線で見られる棚田

P社は国営の兵器メーカーであるが、僕の関心はこの企業が製造していた工作機械にあった。工作機械は機械の部品を加工する機械であり、mother machineと呼ばれる。13年前、大学院生の身でアンケートを送ったら、ていねいな回答があり、調査に来てもいいとのことで、出かけたのであった。インドネシア語で質問リストを作成し、英語で答えてもらった。機密情報があるはずの兵器工場なのに、ずいぶん好意的で工場見学もさせてもらい、社員食堂でお昼をごちそうになった。ちょっとましなレストランに連れ出してくれるより、社員さんと同じ食事をいただくのが僕にはうれしい。

今回はメールでコンタクトを取った。しばらくして流暢な日本語で返信があり、たまげた。インドネシア政府が日本に留学させた少なからざる若手技術者たちが帰国後、活躍しているのである。その一人Yさんが、僕の質問に答えられる社内の元日本留学生仲間を集めてくれた。ラマダン(断食月)に入るまでにおいでなさいというので、なんでやろかと思っていたら、聞き取りの合間におやつが出た。紙箱においしい菓子パン2個とミネラルウォーターのカップがはいっていた。

今でも日本にはたくさんの留学生が来ているが、親切にしてあげると、彼らはちゃんとそれを覚えていて、自分がしてもらったようにもてなしてくれるのである。こういう気持ちに国境はない。Yさんは日本人に似た風貌で、たいへん穏やかな人柄であった。

集まってくださったみなさんのおかげで、13年間に起こったP社での工作機械生産の顛末を把握できた。夕刻、Yさんが自分の車でターミナルまで送ってくれて、乗合のミニバンでジャカルタに戻った。

翌日は再びナンダさんのお世話になり、工業省など政府機関を回った後、T社の本社に行った。ここはインド系インドネシア人S氏が一代で築いた、この国有数の企業グループであった。1997年、バンドゥンから白タクをチャーターして、ジャカルタへの帰途、T社の工場を訪問した。現地で初めて知ったT社は事前にアポが取れなかったが、是が非でも状況を知りたかったので押しかけた。昼食も食べそびれ、3時間待って、ようやく部長さんが会ってくださった。突然の訪問だったのに、ていねいに質問に答えてくださり、工場も案内していただいた。この時に味わった研究上のエクスタシーは忘れられない。

しかし、ちょうどこの時に始まっていた東南アジア経済危機はスハルト大統領を退陣に追い込み、大統領との関係が深かったT社も経営危機に陥った。その後、T社はどうなったのか、を確かめたかった。ジャカルタにあるT社本社の受付で用件を伝え、待っていると、インドネシアの経済誌で顔を見知っていたS氏が通りかかり、目と目があった。塗炭の苦しみを舐められたであろうに、余裕のある表情が印象的であった。T社の担当者は、S氏の右腕である日本人Y氏を紹介してくれ、外出中の彼の携帯電話に取り次いでくれた。Y氏は晩に僕のホテルまで来てくださり、97年以降のT社の状況について、教えてくださった。

この日から、ラマダンが始まり、ナンダさんは日の出てる間、飲食をしなくなった。僕にひとりで昼食をとらせ、その間、彼はショッピングセンターの礼拝室でお祈りをしていた。ラマダン中の昼間もレストランは非ムスリムのために営業しているが、カーテンで中が見えないように配慮している。

断食月のレストラン
断食月のレストラン

インドネシア料理
インドネシア料理

インドネシア料理の中では、焼き飯(ナシ・ゴレン)や焼きそば(ミー・ゴレン)がいちばんありふれていて、日本人にも食べやすい。しかし、いずれにもムスリムが口にしない焼き豚や豚肉は入っていない。肉といえば、鶏肉か、牛肉である。辛い地方料理もあるが、タイ料理や韓国料理のように辛さに困ることはそれほどない。(つづく)

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