平成24年11月10日
ジャカルタに着いた翌朝、通訳のナンダさんに電話した。画像サイトでNandaと入力すると、女性の写真が大半である。したがって通訳さんは、お姉さんだと期待していた。本人が電話に出ないことを想定して、インドネシア語でどう言うか、考える。
Nama saya YOSHI dari Jepang. Boleh saya berbicara dengan Nona Nanda?
(日本から来たYOSHIと申します。ナンダさんと話せますか。)
ここで名前の敬称として、英語のMissに相当するNonaを付けた。
電話に出たのは女性で、上記のように僕は話した。やや、いぶかしげな様子。代わってナンダさんが電話に出て、日本語をしゃべった。「なんだ、男だ!!」顔合わせと打合せを兼ねて、土曜の午餐をホテル近くのレストランで共にする。
ナンダさんは、日本のアニメが好きで、大学で日本語を学んだそうだ。通訳の傍ら、日本のコミックの翻訳もやっている。敬虔なイスラム教徒である。僕は宗旨を尋ねられてややとまどったが、仏教徒ということにしておいた。ちなみにインドネシアでは信仰がない人は、共産党支持者とみなされるとのたまう。TPOに応じて、なんぼでも宗旨変えする日本人とはちがう。
多数派であるマレー系インドネシア人の多くはイスラム教を信じており、経済力のある中国系の多くはキリスト教徒である。2001.9.11に代表されるようなキリスト教徒とイスラム教徒の対立が世界的な問題になっているが、16、17世紀ヨーロッパで成立した近代科学は、ギリシャ科学が両者の間で継承、展開されることによって生み出された。
イスラムは迫害されて中東に逃れた異端のキリスト教徒からギリシャ科学を学んだ。一方、ギリシャ科学を理解できない知的水準に堕していた西ヨーロッパ社会は、12世紀にイスラム世界で継承され、独自の発展を遂げていた科学を引き継ぐことで、テイクオフしていく。現在、イスラム社会がキリスト教社会に遅れをとっているように思えるが、イスラム世界が先進的であった時期もあるのだ。
考え方の異なる社会が互いに相手の文化を尊重し、学びあうことによって、豊かな実りがもたらされることを歴史は物語っている。互いを否定していたのでは、何も生まれない。
インドネシアのムスリムはおおむね穏健だが、過激派による爆弾テロも生じた。おかげで高級ショッピングセンターに行くと、入口で手荷物検査があり、駐車場に車を入れる時には、警備員がトランクや車体の下まで検査している。
ジャカルタの都心は高層ビルの立ち並ぶ大都会である。高所得者は先進国なみの消費生活を謳歌できる。西武百貨店もあれば、紀伊国屋書店もある。
しかし、都心でも大通りから外れると庶民の暮らしがある。ごみのたくさん浮いたどぶ川沿いで、女性がたらいで衣類を手洗いしている。冷凍食品が並んだスーパーマーケットがある一方で、生肉を売っている屋台がある。百貨店の地下でTeppanyakiを食べる人が
いる一方で、多くの人は路地の屋台で、炭火焼の焼き鳥(sate ayam)や日本とは炊き方が異なりぱさっとしたごはんを食べる。Hoka Hoka Bentoというチェーン店もある。これはいわゆるほか弁屋さんではなく、店内で食べるファーストフード店である。
さて、8月9日月曜日、朝からナンダさんと現地企業の調査にタクシーで出かける。日本出発前にようやく返事をもらえた企業である。高速道路を飛ばして、ジャカルタ郊外をめざす。グーグルマップで予め位置を確認していたので、迷うことなく、指定の10時に到着。ところが肝心の社長が不在。よくあることである。泣きそうな気持ちになるが、申し送りはされていて、社長の兄とスタッフの方から話を聞けた。従業員40数名の中小規模の工場であるが、社長は名門バンドゥン工科大学を卒業して、ダイハツの現地工場で技術者をした後、独立して、機械製造を始めたそうだ。
こうした企業が日本や中国からの輸入機械と競争しながら発展しうるのか、興味あるところである。性能では日本製に劣り、価格では中国製に負ける。現地のユーザーニーズにきめ細かく対応できれば、成長の可能性はある。
晩ごはんはナンダさんの提案でホテルの近くのステーキハウスに行った。オーストラリアビーフにしたが、ソースがどっぷりかかっていて、肉の味がわからなかった。(つづく)
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