アトリエトーク

『6月にむけてのご挨拶』
-父の死を迎えて-

平成28年5月9日

河村国語作文塾&学びのアトリエ
河村 勝之

拝 啓

桜も咲き、気温が上がる日も多くなりましたが、皆様におかれましてはいかがお過ごしでしょうか。ゴールデンウィークは4月29日(金)から5月5日(木)まで長期休暇を頂き、本当にありがとうございました。その間、この塾の創始者である父が88年と6ヶ月の生涯を閉じました。

4月28日(木)に退院し、念願の在宅生活に入った父でしたが、3日後の5月1日(日)の早朝に静かに息を引き取りました。安らかな最期でした。

5月2日のお通夜を経て、「晴れ男」の父にふさわしく、5月3日の告別式の日は空の青、桜のピンク色が目にしみる程良い天気に恵まれました。この日の式は、父の遺志を受けて、自宅での母と私の家族と弟夫婦での本当にささやかな家族葬でした。ですが、納棺の前にゆっくりと湯灌をして頂くところを見届けることができました。また、里塚の火葬場でも楽しく明るかった父らしく、「お骨」になるまでの間も暗く湿っぽい雰囲気になることはありませんでした。さすがに柩を炉に入れる瞬間と骨になって出て来た瞬間は、母をはじめ言葉にならない声と涙の状態になりましたが、家族皆で哀しみを分かち合うことで、何とか平静を保つことができたように思います。

思い起こせば、23年前の12月に父を社長とし、私を塾長として札幌市白石区に産声を上げた札幌フォレストでした。父が創業6年後に脳梗塞で倒れるまでは、本当に毎日のように喧々囂々(けんけんごうごう)と議論しながらの塾創りでした。父は昔、軍隊から戻った後の20代前半の頃、関西大学付属一中で体操と国語の教師をしていた時期があり、字の書き方や作文の起承転結、礼儀や言葉遣いにとても厳しい人でした。祖父の仕事を手伝い、その後長くサラリーマン生活を続け、親会社の天下りではない初めての取締役になったということが父の自慢でした。「お前には経理は無理だ、私がやる。」とその職を投げ打って、住み慣れた大阪の自宅を手放し、母と共に自家用車で1週間かけて札幌に渡って来てくれました。両親の家財道具を積んだコンテナを乗せたトラックを、父の新居の前で妻と迎えた時のことを、今も鮮やかに覚えています。

厳しさの中にいつも優しさを秘めていて、後でじわっと来るという事が何度も何度もありました。文学・絵画・クラシック音楽など芸術全般にわたり何でも好きな人で、全国の美術館を母と巡り、詩もたくさん書き遺しています。自作の詩集を7冊ほど残してくれているので、一編一編を毎日味わっていきたいと思います。

読書も父に教えてもらった大切な宝物です。家の中にあった岩波文庫の『ファーブル昆虫記』やヘルマン・ヘッセの小説は、それぞれ小学生・中学生の時にむさぼるように読んだものです。浪人した時に勧められた、岩波文庫のロマン・ロランの『ジャン=クリストフ』は今も生涯のベスト1として私の中で燦然と輝いています。また、私が27歳の時に北海道に渡って来る直前の人生の岐路に立った時は、父と同じ昭和2年生まれで、父が晩年好きだった吉村昭の作品群が、私を根底から支え勇気づけてくれました。

長々と書き連ねて参りましたが、父の教えを範とし、父の生涯を誇りとし、その志を受け継いでいきたいと存じます。残された母の介護等で再びご迷惑をおかけするかもしれませんが、何とぞご理解・ご協力の程、よろしくお願い申し上げます。

最後になりましたが、休講等でご迷惑をおかけしているにもかかわらず、何人ものお母様より本当に心温まる労いと励ましのお言葉を頂きました。感謝の言葉もございません。深く感謝致します。私事を最後まで書き連ねたご無礼を何とぞお許しください。

敬 具

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